自立と依存

http://d.hatena.ne.jp/asuka200/20080410からの引用です。

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さて、ここから私たちが学ぶことはといいますと、労働することが自立の絶対条件ではなく、社会的な文脈の中で「労働=自立」が編成されてきたということでしょう。生活を自らの手で支えていくには、働くことは自明のことですが、私たちが生きていること自体に労働を伴ったものといった視座もあり得ましょう。「ベーシック・インカム」がすべての人に無条件で基本所得を保証するという時、既存の社会配分に対する再編を迫るものであり、問い直しの試金石のひとつになればと思います。
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自立とは何かを考えていたのですが、大辞林によりますと『他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること』と説明しています。一般的に言われている自立とは、1.経済的自立、2.身体的自立、3.精神的自立の3つに集約できるかと思います。

まず、1の経済的自立については、近代以前においては労働がある種の依存形態に属するものであるからして、労働することは自立を促すという意味に派生するまでに至りませんでした。この辺りのことを今村仁司が「近代の労働観」(岩波新書)で以下のように述べています。

『労働が労働として突出していないこと、われわれが労働と呼ぶ生産活動は、何重にもヴェールに包まれていることである。厳密な意味では「労働」は存在しない。「労働」は、あるところでは宗教的な祈りとひとつであり、他のところでは倫理や道徳とひとつであり、または芸術作品をつくる美的活動ですらある。生業にさかれる時間は少なく、余暇が圧倒的である。』(P25)

では、この場合の文脈での自立とは何かと申しますと、何ものからも拘束されないような位置=労働からの解放がそうだと思われます。だから、この時代におきましても慈善・救済事業は共同体の中で起こり得たのであるわけですし、たとえ労働しても、それは現代的な意味での自立になり得ないものと解されるでしょう。現代的な意味で労働をとらえる場合、一旦は賃労働としての貨幣の対価物として組み直す作業があるわけですけど、近代化によってそれはますます加速されて、労働は生産物を作りだす作業とみなされるようになり、やがて、それは生産物に留まることなく、すべての流通の場において見い出されるまでに及びました。そして、これには、今まで労働と見なされなかった家事労働や介護労働も包含します。さて、こうした資本主義の発展によって労働観が変化した有り様をフーコは感受していました。少し長いですが、引用します。

『労働と食事とが代わるがわる続いて、被拘禁者は夕暮の祈りまでそれらに付きまとわれる。それで、日々新たな眠りが被拘禁者に、想像力の錯乱に伴う幻によって全然かき乱されない心地よい休息を与える。こうして六日間の平日がすぎる。それに続くのは、もっぱら祈りと教育と有益な瞑想にささげられる一日である。こういうふうに週が、月が、年がつぎつぎ続き、交代するようになる。こうして、入獄当初は移り気な人間、つまり自分のむら気ばかりを頼りにしつつ自分の生活を各種の悪で破壊しようと努める人間だった囚人が、最初は全く表面的な、だがやがては第二の天性に変わる習慣の力によって、次第に労働およびそれから生じる喜びにすっかり親しみを覚える。』(ミシェル・フーコー 田村訳「監獄の誕生』p238−239)

ところで、私が、ここで取り上げたいと思っている自立はといいますと、3の精神的自立なのですが、時間があればまた書き込みたく存じます。今日のところは時間の都合でこれで失礼いたします。それと、引用しました文献は以下のHPからのものです。私自身は、紹介した文献を読んでおりませんのでご容赦下さい。
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http://d.hatena.ne.jp/loisil-space/20070716/p1